海近山圓頓寺について・・

 当山の由来はさだかではありませんが、今を去る事四百年前、即ち、天正十二年(一五八四年)日蓮大上人の法孫で、中山法華経寺歴世である日通上人の弟子、
寂静律師日圓上人による御開創であります。 日圓上人の御命日は慶長十四年八月五日であり、他は明治十四年(一八八一年)行徳町の大火事により本堂、庫裡等、悉く全焼し、貴重なる寺史の資料等も焼失して不明なる事は甚だ残念な事であります。叉大正六年(一九一七年)の大津波により、重ねて失なわれたものと推察されます。明治十四年の大火は、本堂、庫裡を焼失して、山門のみ残ったようですが、山門脇の報恩塔の石は火を浴びた形跡があり、五百久遠忌に建てられたもののようです。従って、今から約二百年前、即ち、安永七年(一七八八年)十月十三日で、開権山十三世、弘経院日通と善かれております。行徳史によりますと、この
塔が建てられる九年前に、即ち、明和六年に行徳町に大火災があつたと記されております。従つて、この石塔は、明治十四年の火災の時、火を浴びた事になり、門だけが不思議に残った事になります。然して、その建立の年代も不明であるが、相当古いものと想像されます。又焼けた本堂は、当山第十七世慈恭院日良上人により建立されたものであります。この、日良上人は、後に、下谷の徳大寺を経て、京都の本山本法寺第四十七代の法統を継がれた方で、それは、安政三年(一八五六年)二月十三日のことです。然し乍ら、上人は同年病痾に侵され、伊豆熱海へ入湯
して、静養中、十月十日同所に於て遷化されました。時に世寿六十三歳にして、玉沢妙法華寺に葬られました。当山にも、上人の墓を建立して、その法功を伝えております。以来、約百年を経て、圓頓寺は漸く復興いたしました。即ち、庫裡は、昭和四十三年に約三十三坪を建立し、後に住職により増築される。本堂は、宗祖日蓮大上人第七百遠忌に相当し、其の報恩記念事業として、事務所、渡り廊下と共に建立、昭和五十四年着工し、昭和五十五年夏に完成致しました。この本堂は、約三十坪の総銅板葺きの入母屋式で、正面入口には、金文字の海近山なる山号の額が掲げてあり、江戸末期の書家、市河米庵の筆によるものであります。 尚、当山の山号は、昔は、「開権山」と呼ばれた時代もあつたようです。御本尊は、十界勧請輪円具足未曽有の大曼荼羅を奉安し、其の前に御木像の壹塔両尊、(多宝如来、釋迦牟尼佛)と四菩薩を以て本尊として、俳法守護の善神、四大天王を安置し、前方に日蓮上人像を安置する。当山の、宗祖日蓮上人御尊像は、除厄開運日蓮大菩薩として古くから知られております。其の他、慈悲観世音菩薩、祈禱本尊鬼子母神を祀り、又、能勢妙見大菩薩、二十三夜月天王を勧請してあります。殊に、二十三夜様は、堀之内妙法寺に蔵する晃殿司の筆になる霊賓の御影を謹写し、御師範、堀之内三十一世、堀日正上人の御開眼によるもので、戦前の堀之内二十三夜様の縁日には、(毎月二十三日)終日参詣者が絶える事なく、其の妙益を被る者数知れず、現在も又、縁日には門前に参詣者群をなしております。当山又、其の妙益にあづかり度く、ご勧請御安置申し上げました。御本尊とは、御曼荼羅の中心をなす三宝尊のことであります。中心に南無妙法蓮華経と善かれた宝塔があり、その両脇に釈迦如来と多宝如来が安置され、その前方に日蓮上人の像があります。儒教の中心の教えは、佛法僧の(三宝)を敬うところから説かれています。宝塔は「法」を意味し、その法は法華経の説の真理をあらわしています。「佛」は釈迦如来で、真理を悟った人を佛と名づけ、彿は教を説き、佛の教は釈迦如来の悟られた内容である為め、久遠の本師釈迦牟尼佛と称(たた)えています。「僧」はその教えを信奉し流布する「集団」乃至「人」でそれは法華経を身をもつて説いた日蓮上人をさし、この三者は一体のものとしてとらえるのが三宝歸依の真随となります。多宝如来と云う佛
が並座されておられますが、これは法華経の見宝塔品にお釈迦様が法華経を説かれた時、宝塔の中より大音声で多宝如来がその説法は真実なのだと讃め称(たた)える事
が述べられています。その故に多宝如来は証明の俳として安置されておるのです。 四菩薩とは左の四人の菩薩のことであります。
 上行菩薩 (火徳) 無辺行菩薩 (風徳)
 浄行菩薩 (水徳) 安立行菩薩 (地徳)
涌出品のなかで説かれてゐる菩薩で、釈迦牟尼如来が久遠の本師として成佛を遂げた時の最初の弟子で、本師の所化 (教化されたもの) というので本化菩薩と称しています。本佛に召されて大地が裂け、その下方から涌出したので地涌の菩薩とも称しています。法華経
を信ずる者は、この菩薩が守護して下さるのだと日蓮上人は説かれ、その菩薩の徳は次の文にて理解して下さい。「上行菩薩の火徳を以ては煩悩の迷闇を照し、無辺行菩薩の風徳を以ては悪業の塵垢を払い、浄行菩薩の水徳を以ては苦果の依身を浄め、安立行菩薩の地徳を以ては己心の佛種を生長し」 とあり、真理はこの裟婆世界にありと示しています。
四大天王とは
 持国天王  (東方)
 毘沙門天王 (北方)
右は四天王と呼ばれ、
 廣目天王 (西方)
 増長天王 (南方)
インドの古代での宇宙については、世界の中心に須弥山があり、その山の四面、すなわち東西南北の四面に、おのおの天を守るために四天王が配されて、天上に住む帝釈天の外臣として仕えて、佛法に歸依する人を守護する護法神となつています。この四天王は八人の大将軍を従え各々軍勢を率いて佛國土を守護しているとされています。四天王は始めインドでは貴人姿で表現されていましたが、中国に入ると武人像となり、日本では忿怒相の武装形として作られました。 持国天王は、梵名を提多羅といい、持国、安民と訳しています。東方天の主として守護しています。右手に刀を執り、左手に宝珠を持つていることが多く、善を賞し、悪を罰して国土を護持する天王とされているところから持国の名が起きたといわれています。
 毘沙門天王は、.梵名を吠室羅摩挙といわれ、遍聞、普聞、多聞と訳されています。この為、多聞天と別名呼ばれています。四天王のうち一番人気のある天王ですが、もと金毘羅、訳して蚊龍と呼んで、暗黒の属性がありましたが、光明神として、施福の神となりました。北方天を守護し、甲冑に身を固めた左手に宝塔、右手に
宝捧を持って道場を守護していることが多いとされています。宝塔より珍宝が出されるとされて、財宝の神としているところから七福神に加えられています。
 廣目天王は、梵名を毘留博叉といい、廣目、雑語、悪限などと訳しています。西方天を守護し、廣目天の具える眼目が、他のいかなる天よりも広大であるとこ
ろから廣目の名があります。廣目天の役目は、種々雑色を用いて、五体を飾り、大いに威厳を発揚してその威力をもって悪人を罰し、また辛苦をなめさせて堅固な道心を起さすとされています。
 増長天王は、梵名を毘楼勤又といい。南方天を守護しています。万物能生の力を具しているため、自他の威力を増長させるというところから増長天と呼ばれて
います。膚の色は赤色にして、身は甲冑を着し、左手は挙にして腰にあて、右手は剣を持つとされています。一切の邪悪を折伏して善根を増長させるとされています。
 天邪鬼(あまのじやく)は以上四天王の脚下に四体とも天邪鬼が踏まれています。人の意に逆らう邪鬼のことで、又はわざと人の言行に逆らう者を天邪鬼といいます。四天王はこの姿を踏まえています。天邪鬼は毘抄門天が腹部につけている思面の名で、後に毘沙門天が足下に踏む二鬼を耐薫(あまのじやく)と名づけたものです。 観世音菩薩とは、種々異なつた名前がありますが、一般大衆に親しまれている菩薩で法華経の 「妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五」 に詳しく説かれてあります。叉略して観音経と呼んで、他宗派でも読諭されております。三十三身に変化して民衆を救って下さる
慈悲深い菩薩です。世尊、若し衆生あって是の観世音菩薩の自在の業、普門示現の神通力を聞かん者は当に 知るべし、是人(このひと)の功徳少なからじと説く。 鬼子母神は、種々説がありますが、釋迦如来の教化を受けて善神となり、法華経の行者を守護することを誓い、祈禱本尊とされており、法華経陀羅尼品に咒を説いて誓っております。
 又御宝前の金蓮華は清浄を現し、又燭台、香炉、花瓶が必ず備えてあります。これは宗旨には必ず戒定慧の三学を具するものであるからそれに当るものです。
 本門の本尊「定」香、本門の題目「慧」燈明、本門の戒壇 「戒」花、以上が圓頓寺の本堂内、御賓前に備えてあるわけです。其の他、佛様の御供養と先祖の菩提
の為め、沢山の高価な佛具が備えられ御賓前を荘厳にしてあります。この荘厳且つ清浄なる道場に於て唱題行により、心中の佛性を呼び起し、御先祖様の追善供
養に資したいものです。
 扨て、それでは四百年前の天正十二年とは如何なる時代であったかを振返って見る事にいたします。誰れでも理解出来る当時代の背景を見ますと、天正十年(一五八二年)は織田信長が京都の本能寺に於て、家来、明智光秀に討たれた年である。 そして天正十二年(一五八四年)は、圓頓寺が創立された年であり、豊臣軍が徳川軍に小牧山の長久手の戦に敗れ和睦をした年でもありました。天正十三年は、豊臣秀吉四十三才で関白太政大臣となり、天正十八年(一五九〇年)豊臣軍と徳川軍の連合により、小田原城を攻め北条氏をほろぼす。慶長三年秀吉六十三歳にて逝去する。慶長五年(一六〇〇年)関ケ原の合戦となり豊臣方が滅ぶ。慶長八年(一六〇三年)家康六十二歳にて征夷大将軍となり、江戸に幕府をひらき、徳川の幕政時代に入る。このように戦国乱世の時代に始まった圓頓寺は、四百年と言う、長い時の流れの中に、檀家の御先祖様方の厚い信仰の力によって支えられ、護られて釆たものです。
 今後共、永遠に続く事であろう、又続けなければならない、この圓頓寺を、今般、宗祖七百遠忌に際して、この報恩の記念事業として、本堂の建立を、発起人より建築委員会を組織し、檀家各位御一同様の一段の御力添えを頂いた事を心から感謝申し上げ、当山勧進帳に御芳名を記録して、永く子孫に伝へ、其の法功を称(たた)へるものです。
 尚、新墓地の整備も行い、宗祖第七百五十遠忌に向って、固頓寺発展の基礎が出来ました。当地区は、私が参りました当時は、終戦直後の事で、交通が不便でしたが、今は、地下鉄東西線と湾岸道路の開通により、交通の便、至極よくなり、駅を中心にして、近辺より街(まち)が発展して都會化し、其の急速さは目覚しいものがあります。
 因みに、圓頓寺は、行徳駅より徒歩十五分乃至二十分、バス(本八幡行き)で五分の便利さです。タクシーの場合、行徳二丁目旧街道、葛南電気店の前を右に入り、突き当りの圓頓寺と指名すれば参ります。どうか、御気軽に御参詣賜りますよう、御案内申し上げます。